眩しい。
知らない人に付いていくのは危険だと言う。
有刺鉄線の向こう側は危ないと言う。
簡単に他人に連絡先を教えてはいけないと言う。
目的が分からない食事の誘いに乗ってはいけないと言う。
今、貴方が通り魔に刺される可能性は?
今、貴方の後ろをそっと着いてきて家に押し入って犯してしまおうという人がいないという確証は?
今、貴方の足元の地盤が突然崩れてしまう可能性は?
今、貴方の個人情報を知っている人は本当に貴方が信じて教えた人だけ?
危うさを異議として唱えるのは
まっとうな人生を送ってきた人だけ。
思い出
あれは14才の時。
うだるような暑さを感じる夏の日でした。
人生に恥を重ね続けた私は
もうこの世に
いてはいけないのではないかと
半ば宗教にもにた思想で死ぬことへ執着していました。
どの死に方が1番リスクがないのか。
ここでいうリスク、とは
痛みや他人へ与える影響のことです。
今思うと何て浅はかで稚拙な考えだろうと
顔から火が出る思いですが
それでも当時の私にはそれ位
深刻で重大な気持ちでした。
思い立ったが吉日。
ふんわりと
友達の家に向かうような足取りで
樹海へ向かいました。
少し湿り気のある
柔らかな土を
1歩1歩踏みしめていきます。
少し薄暗かったでしょうか。
子供の足で2時間程歩いたその先には公道が見えました。
今思えば、深部までは行かず
端の方を歩き回っていただけなのだと思います。
滑稽でしょう。
それでも
私の両足は
何度堕ちたとしても生きることを選び続けてきたようです。
手放したいもの
私には今
どうあっても手放したいものがある。
私の人生にはまったくの不要なもので
価値観も考え方も向いている方角さえ
まるで噛み合わないような代物だ。
するりと指の間をすり抜けるように
穏やかに
しなやかに
これを手放すにはどれだけの労力が必要なのだろう。
世捨て人になろうと思った。
承認欲求を満たすため。
ある晩ふと思った。
この世はなんて生き辛いんだろう。
そして、それを作っている要因のほとんどが対他との繋がりなのではないか、と。
昔の人はうまいことをいう。
自らをロジカルに理解し、表現することを得手としない私は
どのように他者と関わって生きていけばいいのだろう。
そうだ。世捨て人になろう。
想像してほしい。
誰とも関わらない世界を。
誰とも言葉を酌み交わすことなく
気を使う煩わしさのない
そんな世界を。
引き換えに失くすものはなんだろうか。
世を捨てる、
ということはどういう状態か考えてみた。
離島で一人、衣食住全てを自給自足で賄って暮らすこと。
四畳半の部屋に一人きり、本やラジオと向き合って暮らすこと。
例えば工場での生産業や敷地の草を刈るような仕事で
誰ともコミュニケーションをとることなく
生活に最低限必要な賃金のみを得て生活していくこと。
果たして私は手放せるのだろうか。
今ある、数少なくもできてしまった人との繋がりを。
文化的な側面を持ち合わせたこの生活を。
目の前五秒で、ほとんどのことが手元で解決してしまう利便性を。
承認欲求を満たすため、
という目的が答えそのものだ。
才能と努力量は比例しない
努力は生まれ持った才能を引き出す過程でしかない。
物事を深く見ることで感性は磨ける。
でも才能は違う。
才能と努力は噛み合わない。
才能は他者から認められて価値になる。
価値のない才能を素質とは言わない。
才能は素質と物事を成し遂げる力。